電磁波の伝播-2(媒質論議と光速度)


ヤングの二重スリット実験、 マクスウェルの方程式による電磁波予言、ヘルツ、マルコーニ等によるその証明。 しかし電磁波の解明は単に一つの物理現象の解明に留まらなかったようです。

19世紀、ニュートンを代表とするそれまでの物理学で、世界の物質現象はほぼ解明し尽くされたと言われた時期が有りました。しかし電磁波(=光)の発生の仕組みとその伝播に関する考察から、物理学は全く新しい物質世界の様相を提示することになりました。
一つはプランクによる光エネルギーの考察を契機とし、その後多くの天才たちによって発展させられた量子論、もう一つは、アインシュタインと言う、ほぼ一人の天才による、光の速度に関する考察を契機としその後重力までも含めて、時間と空間の統一に至る相対性理論

この、量子論と相対論を二本柱とする物理学上のパラダイムシフト=現代物理学は、それまでの、完成されたとされていたニュートン物理学を「古典物理学」の座に引き下ろし、その枠から脱皮出来ず自殺した物理学者や、マッハ主義など哲学上の混乱を引き起こしつつ、それを乗り越えて20世紀を物理学の世紀としたのです。

半導体・エレクトロニクス、GPS、宇宙論など、現代文明の中枢で、量子論と相対論抜きに語れる技術と理論は有り得ません。


 

 

電磁波の伝播とその速度

光速度

電磁波の媒質論議と光速度

ヤングの二重スリット実験(1805年頃)・マクスウェルの方程式(1864年)等を経て、光は波であるとの認識が定着した訳ですが、ここに大きな問題が新たに発生することになります。光が波であるならば、その媒質は何か?と言う問題です。

波が伝わる為には、通常それを伝える媒質が必要だと考えられていました。 水面の波は水が無ければ当然伝わらないし、音波は空気が無ければ伝わりません。電磁波(Electromagnetic waves)の名が示すように光も波である以上、当然その媒質が必要だと考えられエーテルと言う仮想物質が想定されました。
エーテルそのものは17世紀頃から、光や力が空間を伝わる為の媒質としてデカルト等によって存在が仮定されていたようですが、波としての光を伝達する為に必須な媒質として、言わば無理やり考え出されたこのエーテルモデルは、当時としても矛盾に満ちた奇妙なものにならざるを得なかったようです。

例えば星の光は真空の宇宙空間を通って地球に届くことから、エーテルは宇宙全体を均質に満たしていると考えられ、また絶対的な静止座標として想定されました。エーテルそのものは動かないものとして考えられたのです。若し地球に引きづられる等して動くとすれば、地球の運動による恒星の見かけ上の位置のずれ(光行差)が説明できないと言う問題が有りました。
エーテルは空間を満たす流体で有りながら、天体との相互作用は一切なく、質量も粘性もゼロで無ければなりません。

他方、偏光を説明する為には光は横波でなければならず(実際に電磁波は横波)、高周波の光を横波で伝えるには鋼よりも遥かに硬く強固な結合性が要請される。.........等など。

今ここで問題として考えるのは前段です。
エーテルが絶対的な制止座標を持つとすれば、その中を進む光は、進行方向と後退方向、或いは横からの速度がそれぞれ違って観測される筈です。
救急車のサイレンが、向かって来る時と遠ざかって行く時とでは音の高さ(強さでなく)が違うのは、空気を媒介して伝わるサイレンの音波の速度が、観測者(サイレンを聞く人)に対し相対的に違うことによります。
つまりエーテルと言う媒質を想定する限り、光の速度も方向により違わなくてはなりません。

しかしマイケルソンとモーリーの、非常に厳密な観測実験により、光の速さは地球の運動に一切関係なくどの方向にも同じだと言う結果が得られました。
つまり光の速度は、観測者の運動に関わりなく、一定だと言うことです。 このことは宇宙全体に対して静止している絶対座標としてのエーテルの想定と矛盾します。

光量子仮設とエーテルの否定

エーテルの存在は、アインシュタインの「光量子仮説」、相対性理論などによって否定されることになります。
光量子仮説についてはリンク先を見て頂くとして、光も粒子だと考えることでその伝搬に媒質を考慮する必要が無くなった訳です。
実はアインシュタインは相対性理論に関してでなく、この「光量子仮説」論文によってノーベル賞を受賞しています。

アインシュタインと特殊相対性理論

「光量子仮説」に関する論文の3ヶ月後、当時の物理学の手に余っていたもう一つの厄介な現象、上記マイケルソンとモーリーによる「何故光の速度は、観測者の運動に関係なく、常に一定に観測されるのか」に説明を与える革命的な理論が提唱されます。言うまでも無くアインシュタインの「特殊相対性理論」です。

例えば鉄砲の弾を考えて見ましょう。弾丸のスピードは非常に速いのですがそれでも今の超音速ジェット戦闘機はそれに匹敵するスピードで飛んでいますし、宇宙ロケットは遥かに早い速度で飛びます。
弾丸と並んで同じスピードで走ったとしたら、隣の弾丸は止まって見える筈です。丁度同じスピードで並行して走っている隣の電車が止まっているように見えるのと同じ現象です。
これはわれわれが普通に考えている自然の姿です。

同じように、仮に光の速さで光と並んで走ったらどうなるか、とアインシュタインは思考実験をしたらしい。
隣を走る光の先端部分は、止まって見えるだろうか。或いは光の速さで走りながら顔の前に鏡をかざしたとしても、自分より前には光は進まない訳だから鏡に自分の顔は写らない筈だ。.........が、
しかしそう言うことは有り得ないだろう、とアインシュタインは考えたらしい。
実際、上記マイケルソン、モーリーの観測で示された結果も、光速度は観測者の運動に依存しないことを示唆していました。

結論から言うと、光に対してどんなスピードで運動している観測者から見ても、光のスピードは常に一定だと言うのです。
止まっている人から見ても、上記思考実験のように、光と同じ速さで走っている(実際は光の速さで走ることは理論的に不可能)人から見ても、やはり光の速さは同じに観測されると言うのです。

これは日常的な経験からすれば非常に奇異な結論です。それまで常識とされたニュートン力学が示す「自然の姿」とも矛盾します。
しかしアインシュタインは、光速度一定と言う観測事実を受け入れ、それに合わせて「自然の姿」を書き換えました。それが特殊相対性理論です。特殊相対性理論の中身は次に若干述べますが、それが日常的な感覚から如何に奇異に思えようと、今それは正しいことが証明されています。

特殊相対性理論によってニュートン力学は、少なくとも光速度域では否定されました。
しかしマクスウェルの方程式は、その中に「光速度一定」を含み、特殊相対性理論によっても否定されること無く、矛盾せず並び立ちます。
電流とは「単位時間に流れる電荷」のことであり、その中に必然的に「時間」と「速度」の概念が含まれます。
マクスウェルが自分の方程式の中に、後の相対論的要素を意識していたかどうかは分かりませんが、 プランクの「エネルギー量子」の発見に始まる量子論を含めて、さまざまな方向からの光(電磁波)の研究を通して、20世紀は物理学の世紀となったのです。

併せて言えば、1953年のDNAの分子構造の決定(ワトソンとクリックによる、「英国的フェアプレー」でギリギリ容認される大発見。本来ならロザリンド・フランクリンの名誉に帰すべき、と私は考えるのだが)によって、それまで地味な博物学的存在だった生物学が、一躍エキサイティングな科学になり、上記現代物理学と併せて20世紀を「物理学と生物学の世紀」としました。 

 

光と時空

時空

時間、と言ういかにも客観的・普遍的と思われていた概念も、空間を含めたこの世界の有り様と密接に結びついたモノとして理解されるようになってきました。いわゆる「時空」の概念です。
ニュートンは時間も空間も絶対的なものとして、それぞれ独立に世界の外側に、言わば枠組みとして、絶対座標として存在していると考えたようです。...って、これは今でも私たちの常識的な感覚と一緒ですよね。 私たちは、枠組みとして「動かない」空間の中で、「均一に」進行する時間を、誰もが一緒にすごしている、と普通に考えています。 そうでなかったら予め打ち合わせた時間と場所で待ち合わせが出来ないことになります。
しかしこの「当たり前」で「常識的」な考えを大きくくつがえしたのが、アインシュタインの「特殊相対性理論」です。

光のスピードで進むと時間も止まる、とか、止まっている人と動いている人とは時間の長さが変わって、「同時刻」と言う概念が成り立たない、とか、動いているものはその進行方向に長さが縮むとか。
或いは重力とは質量による空間の歪みから来るものであり、重力と加速度は同じもの(一般相対性理論の等価原理)で、高いところに置いた時計と低いところに置いた時計では、重力の影響でその進み方が違う、とか。
そもそもビッグバンに始まるこの宇宙のありさまと無関係に、要するにその外側に絶対的な基準としての時間と言うのは無く、宇宙の誕生と共に時間もまた誕生したらしい。

あなたが「時間」と「場所」を決めて恋人と待ち合わせる時、特殊相対性理論による時間の遅れや、一般相対性理論による空間の歪み等は一切気にしていない筈です。日常的な生活の中では相対性理論的世界を全く意識しないで済んでいます。これは我々の行動が光速度に比べてあまりに遅いからであり、無視出来る程に重力の影響が少ないからです。事実、日常の経験の中では最も速い部類に属する宇宙ロケットの打ち上げでさえ、その軌道計算などはニュートン力学に依拠していますし、それでなんら問題有りません。
しかしやはり根底には相対性理論的世界が横たわっています。

例えば、「時間は、一瞬の滞りも無く、切れ目無く連続的に、一様に過去から未来に流れています」と言うことを、日常的に疑うことは普通無い訳ですが、しかし考えて見ると、今の瞬間、全ての時間が止まって1万年後に動き出したとして、でも私たちがそれを意識することは全く有りません。 時間が止まっている間は、そもそも1万年だとか1億年だとかと言う考え方が成り立たないのです。「止まっている時間」と言うのは論理矛盾で、本来「無い」んですね。
1億年だろうが10億年だろうが、止まっていた時間が再度動き出したとき、私たちは全く意識せずに時間が止まる前からの行動を継続するのです(筈です)。
同じように、時間の流れに「速い」「遅い」の波、不均等が有ったとしても 、やはりそれを意識することは出来ません。時計も同じように「速く」「遅く」進むでしょうし、我々の身体や意識、回りの環境もそれに合わせて進むでしょう。
本当は時間は、気まぐれに止まったり駆け足で進んだりしているのかも知れません。時間が逆に進む、つまりタイムマシンのように過去に戻らない限り(いや、その場合でも同じか)、我々は時間の気まぐれを一切意識することは出来ません。

つまり、時間は私たちの外側に、この世界と独立に客観的で「絶対的」な枠としてあるのでなく、我々のこの世界と共に、我々の意識を含む全ての運動と共に有るらしい。
時間が止まった時全ての運動が止まりますが、 全ての運動が止まった時、時間も又停止します。 物質の運動の外側に、それと無関係で経過する時間と言うのは無いんですね。

神との決別

この時間と空間についての考え方は、「神」についての考え方と関連します。 全てに超越した存在として、人間の時空概念の外側におわします神を想定すれば、神から見て「止まっている時間」も考えられます。
その意味でも、「神による最初の一撃」を想定したニュートンとその体系を、アインシュタインの相対性理論は克服したとも言えます。アインシュタインが神を信じていたかどうか、それは分かりませんが。
現代物理学は神を必要としていないのです。

これは特殊相対論的な時間概念のホンの一部です。
上記したように一般相対性理論は、重力も又「物質の存在による空間の歪み」 として、物質そのものを時空とひと繋がりのモノとしました。 だから重力無限大のブラックホールの中では、時間も止まっているそうですよ。
量子論を含む 現代物理学によれば、時間も空間も、運動も物質も、全て相互に浸透している世界がイメージされているようです。

......... まっ、それは兎も角として、実際に時間に対する「感じ」は、我々の生活感情と無関係には論じられません。
江戸時代(江戸時代に住んだことの無い人は落語などで感じてください)では、一時(いっとき)と言うと今の2時間位のことを言いました。つまり2時間を一時と認識していたんですね。そう言うペースの生活だったんでしょう。
今は「ナノ秒」だとか「ピコ秒」なんて単位で時間が論じられています。 しかし今でも、恋しい人を待っている間の1時間と、逢って分かれるまでの1時間では明らかにその長さが違います。

運動と時空、相対性理論

運動とは、広がりをもった「空間」の中での「時間」的経過を伴う現象です。
空間の無いところに運動、つまりは時間的経過は無いし、時間の無いところに空間的な展開も有り得ません。つまりそれまで別のものとされていた「時間」と「空間」を、アインシュタインは特殊相対性理論の中で「時空」として統一したのです。

今我々がそこに存在している「空間」は、縦・横・高さの座標を持つ3次元です。この「空間の中の運動」について、我々はごく当たり前のこととしてイメージできます。我々が歩けばその分空間内を運動する訳だし、モノを動かすことはそのまま空間内の運動になる訳で、これは三次元空間に住んでいる人間にとって日常的に、それも或る程度自覚的に経験していることだからです。

そこに「時間」を加えると4次元座標としての「時空」になる訳ですが、この「時空」を感覚的にイメージするのは簡単ではありません。人間は(今のところ)時間座標を自由に制御出来ない(時間を止めたり、過去に戻れない)からで、従って瞬間・瞬間の時間経過を自覚的に感覚しながら生活するのは難しいのです。
アインシュタインの特殊相対性理論が理解しにくいのは、日常的な感覚とのその辺のギャップからなんでしょうね。

特殊相対性理論における、時間と空間、速度

モノは空間内で運動しています。上記したようにこれは我々が日常的に感覚していることです。
同時に特殊相対性理論は、「モノは時間の中でも運動する」と言う考え方を、空間内での運動と等価に前提します。あらゆるモノがある瞬間から次の瞬間に、更に次の瞬間にと運動している訳です。
この「空間の中での運動」と「時間の中での運動」を、ニュートンは全く相互関係のない切り離されたものとして考えた訳ですが、アインシュタインはこの二つに密接な関係性を見出しました。

特殊相対性理論のキモを要約すれば次のようになるでしょう。
光速度は世界における最高速度である、との命題は現代物理学の言わば常識です。
しかし実は光に限らず、この宇宙の全て(我々も含め)のモノは、常に世界の最高速度である光の速度で運動しているのです。但しその運動は、「空間内での運動」と「時間内での運動」の二つの成分に振り分けられています。

空間内で停止している時、そのモノの運動成分は全て時間的運動に振り分けられ、時間は最大の進み方をします。つまり(位置的に)固定されている時計は早く進むのです。
それに対し空間で運動している(動いている)モノは、その分だけ空間に運動成分を取られ、結果的に時間的運動成分が削られ、時間の進み方が遅くなります。つまり、移動している時計は遅れるのです。

kosokudo.gif

※例えば時速100kmに固定されている自動車が有ったとして、真っ直ぐ北に1時間走れば、1時間後、当然のことですが100km北の位置に到着しています。自動車の速度成分は全て北方向に振り向けられるからです。
今度は北東の方向に同じ速度で1時間走ったとすれば、同じ100km走っても北100kmの位置まで到達できません。速度成分が東方向にも取られてしまったからです(右図)。
時間と空間の2要素を、北と東の2要素に例えて考えてみました。

 

※ 2011年9月23日、光速を超えるニュートリノの観測に成功、との発表が有りました。これが事実なら「光より速い物質は存在しない」としたアインシュタインの特殊相対性理論を覆すだけでなく、現代物理学の基本的な前提を覆す「大発見」となります。

日本の名古屋大、神戸大の研究者も参加する「国際研究実験OPERA」のチームが、ジュネーブのCERNで、人工的に作ったニュートリノ1万6000個を、約730キロ離れたイタリアのグランサッソ国立研究所に飛ばしたところ、2.43ミリ秒後に到着し、光速より60ナノ秒(1億分の6秒、ナノは10億分の1)速いことが計測された。とのこと。

研究チームは15000回もの実験を繰り返し、誤差を計算に入れても同じ結果が得られたという。チームも「説明がつかない」と首をかしげており、あまりに重大な結果であり、論評を控え実験データを公表するに留め、世界中の研究者に意見と検証を求めたいとしている。

研究チームとしても慎重な測定の結果であり、事実とすれば冒頭のように物理学の根本を書き換える程の大発見となる訳だが、それだけに当然その発表に疑問を呈する専門家も多い。

例えば、スーパーカミオカンデ実験を率いる鈴木洋一郎東大教授の話として.........、
物理の理論全体に与える影響を考える前に、別の機関による検証実験で、結果の正しさを確かめることが大事だ。1987年に小柴昌俊先生が超新星爆発で放出されたニュートリノを捉えた際は、爆発による光もほぼ同時に観測した。両者の速度に今回の結果のような違いがあるとすると、ニュートリノは光よりも1年は早く地球に到達していなければおかしいということになる。〔共同〕
......など。

※ なおこれは、後日同「国際研究実験OPERA」自身によって、観測の間違いだったとの結論が出ています。いやいや、メデタシメデタシ。

 

時間の遅れの実証例

有名な「双子のパラドックス」は、高速ロケットに乗って旅をして来た片方は未だ若者だったのに対し、地上で待っていた片方はじいさんになっていたと言う話です。
「双子のパラドックス」は兎も角、時計の遅れについては1971年、パンナム航空のジェット機に積み込んだセシウム原子時計と、地上におかれた同じ型の時計との比較で証明済みの事実です。

又、ミュー中間子と云う素粒子が有ります。これは地球に降り注ぐ宇宙線と地球の大気との相互作用により、およそ1万5、6千メートル上空で発生し地上に降り注ぐもので、親指と人差し指で水平の輪を作れば、その中を1分間に2、3個は必ず通り抜ける程に大量に地上に降ってくる粒子です。
しかし本来ミュー中間子は100万分の2.2秒で崩壊する、非常に不安定で寿命の短い粒子です。仮に光の速さで走ったとしても、計算上660メートル位走ったら崩壊してしまい、到底地上に届く筈がないのです。
それが何故1万5、6千メートルの上空から走り抜けて地上に到達するかと云うと、光速に近いスピードの為、ミュー中間子において時間が遅れ、動かない我々から見て寿命が25倍伸びたことによるものです。

 

光は歳を取らない

以上で分かる通り、特殊相対性理論に於ける時間と空間は、抜き差しならない相互関係の下「時空」で統一されています。
光は、この世界における最高速度で空間を移動する、と言う点で特殊なのではなく、その運動成分を全て空間移動に振り向けていると言う点で、他のモノと違う特殊な存在で有る訳です。時間経過に運動成分を取られることが有りません。従って光にとって時間は止まっているし、光は歳を取らないのです。「双子のパラドックス」の究極例だと考えればいいでしょう。

「光は歳を取らない」と言うことから又、イメージし難い不思議なことが持ち上がります。
光にとってこの宇宙の全歴史は、全て「今」で有る筈です。時間が止まっている時(この「時間が止まっている時」と言う表現自体論理矛盾ですが)、「今の瞬間」しか有り得ません。
フェルマーの原理」と言う不思議な現象が有りますが、それを理解するキーが、この辺に有るかも知れませんね。

後決め実験

フェルマーの原理と同じく、量子論で、何とも説明のつかない、しかしあちこちの研究室で実際に何度も確かめられていることとして「後決め(遅延選択)実験」と言うのが有ります。ここで詳しくは述べられませんが、光源から出た光が、光子として粒子の性質を示すか、電磁波として波の性質を示すかは、実験の仕方で決まる場合が有ります。二重スリットを通った光は相互に干渉して波の性質つまり干渉縞を示すし、スリット1つだと粒子の性質を示して1本のハッキリした痕跡を残します。
ところが現代の技術では、光が二重スリットを通った後、スクリーンセンサーに達する前に片方のスリットを塞ぐと言うことが出来ます。その場合どうなるか。
既に二重スリットを通った後だから、光は波の性質を持っている筈です。ところがスクリーンに広がった波の痕跡は現れず、粒子の衝突痕跡を示すのです。
光が既にその性質を決めた筈の後で、実験者が実験内容を変更しても、遡って光はその変更通りの性質を示すのです。光があたかも実験者の行動を先読み出来ているかのようです。

この後決め実験は実験室内だけでなく、10億光年も離れた遠いクエーサーからの、途中重力レンズ現象を経た二つのルートの光の干渉実験でも確かめられています。地球上の実験者が観測の方法を決めたのは、光がクエーサーを出発してから10億年も後の話。それでも光は実験者の意図に沿った結果を出します。
アインシュタインをして「幽霊のように気味悪い遠隔操作」と言わしめた、何とも不思議な現象です。

私ごときがこの不思議で深遠な量子論的現象に、到底アレコレの口を挟むことは出来ませんが、やはり「光は歳を取らない」が、一つのヒントになるんじゃないか、と思っています。我々にとって10億年であろうが、光にとっては常に「今の瞬間」に過ぎないのです。

重力と時間

又、これは速度と時間の関係ではなく重力と時間の関係、つまり特殊相対性理論の問題ではなく一般相対性理論の問題に属することなのですが、カーナビ等に使われているGPSも、システムが搭載されている衛星の位置による重力の違いによって、地上とは10億分の3秒だけ時間が遅れるのだそうです。この時間の遅れを考慮して初めて、カーナビなどの位置が正確に決定されるのだそうです。
ブラックホールも一般相対性理論によって実在が予測されたことですが、この、光さえ抜け出すことが出来ない程に極端な高重力の中では時間も止まっているのだそうですよ。

タイムマシンは可能か?

相対性理論や時間を論じる時、決まって話題になるのが「タイムマシン」です。タイムマシンは可能なのでしょうか?
現在の科学技術では未だその入り口にさえ立っていませんが、しかし遠い未来に、人類はこの夢の技術を可能にするのでしょうか?

少なくとも「過去に旅行する」ことだけは、幾ら遠い未来においても不可能だと断言できそうです。何故なら.........、
若し未来において技術的な問題が解決し、過去に向かうタイムマシンが出来るのなら、その未来からのタイムマシンが今頃我々の目の前に現れているだろうからです。そう云うニュースを全く聞かないと言うこと自体、未来においても、過去へのタイムマシン実現の可能性の、限りないゼロを予測させています。

これはそもそも、原理的・理論的に、或いは技術的に不可能だと言うことなのか、それともそこまでの技術が進む前に人類が滅亡してしまった、と言うことなのか.........?


 

 

デジタルと量子論

時間の流れ、電流の流れ、電圧の変化、カラー濃度の変化、温度の変化など、全て連続的なアナログ現象であるとされます。しかしこの認識は全て我々の日常的なスケールでの話、つまり古典物理学(ニュートン物理学、マクスウェルの電磁気学など)の範囲の話です。
現代物理学の二本柱は、相対性理論(相対性理論については、上記、時間 で少し触れました)と量子論ですが、量子論的世界、つまり超ミクロの世界では、純粋にアナログ的な現象は存在しません。
電気の流れは、目で見る水の流れのように連続的な流体と思われていますが、その正体は、非常に小さな荷電粒子である電子の流れです。つまりは離散的な粒々の現象です。勿論水の流れも、水分子単位の粒々の現象です。

マックス・プランクの「エネルギー量子仮説」

1900年の、マックス・プランク(1858~1947)による「エネルギー量子」の提唱が量子論の直接の幕開けとなりました。
光の正体は電磁波と呼ばれるエネルギーそのものですが、エネルギー量の変化も連続的なものではなく、「エネルギー量子」と呼ばれる離散的な現象だと言うことが分かってきたのです。つまり1個、2個と数えられる「塊」としてしか、エネルギーの変化・やり取りはあり得ないと云うことです。

プランクが提唱した「エネルギー量子仮説」を整理して言うと次のようになります。
或る振動数の光(電磁波)が持つエネルギーの値は、振動数に或る定数(後にプランク定数と呼ばれる)を掛けたものを最小単位とし、必ずその整数倍になる」。連続的な変化や、0.5或いは1.3等と言う中間値は無い、と言うことですね。
ただこの塊の大きさを特徴付ける、プランク定数(h=6.63x10-34 ジュール・秒)が、極めて小さいので、私たちは日常的にそれを、無限に小さい連続的な現象として疑わないのです。

このプランク定数 h が、0 のとき、量子力学はニュートン力学に帰着する訳ですが、マクロのレベルで言えば h=0 とみなして全く問題は有りません。つまり日常のスケールではニュートン力学で考えてなんら差し支えないのです。
現にロケットの打ち上げや衛星の軌道、或いは日食や月食などの計算は、全てニュートン力学に依拠していますし、それで全く狂いなく予測出来ますし、初期の目的を達成できています。

しかし電子や光子など、ミクロな素粒子レベルではこのプランク定数=h が無視できない値となって、マクロな日常的レベルとは全く違った物質の振る舞いを見せるのです。
それが「量子論」的世界です。

プランク定数とともに「プランク長(10-35 )」と言う数値も有ります。
プランク長は核物理と重力の研究で名高い、アメリカの物理学者で誠実な、ジョン・ホイーラーがプランクに捧げた用語です。
「ブラックホール」と言う言葉もジョン・ホイーラーだし、コンピュータの全ての分野に顔を出す「ビット」の概念を提唱したのも又、ジョン・ホイーラーです。

アインシュタインの「光量子」仮説

プランクの「エネルギー量子」仮説から5年後の1905年、このエネルギー量子にヒントを得たアインシュタインは、当時、発見されながらその現象の説明が付かなかった「光電効果」について、光が粒子だと考えれば説明がつく、として「光量子仮説」を発表します(内容はリンク先を参照して下さい)。

※ アインシュタインは、上で述べた「相対性理論」で有名ですが、実はノーベル賞の受賞はこの「光量子仮説」に関する論文、「光電効果の理論ー論文の原題は『光の発生と変換に関する一つの発見的な見地について』」に対してです。授賞理由は「理論物理学の諸研究、特に光電効果の法則の発見」です。
論文発表の順番が「光量子仮説」の方が早かった、と言う理由が有るのかも知れませんが、相対性理論が余りに「革新的」な内容で、当時の物理学者も理解が出来なかった、とか、アインシュタインがユダヤ人であった為、母国のドイツがこの革新的な理論に受賞させるのを拒んだ、とか言われているようです。
なお、同じ1905年(アインシュタインの「奇跡の年」)に発表された「ブラウン運動」に関する論文も、単独でノーベル賞の対象になり得る業績です。

量子論と、プランク、アインシュタイン

見てきたように、プランクとアインシュタインによって、量子論の扉が開かれました。
プランクは物質の運動の中に初めて「離散的・不連続」を見出し、その考えを物理学に持ち込みました。今プランクは「量子の父」としてその業績を称えられています。
アインシュタインの「光量子」も同じことです。
その後多くの天才の頭脳によって、量子論が花開く訳です。

しかしプランクもアインシュタインも、この量子論に対し、終始懐疑的だったようです。

プランクは自分の発見の意義を、自分自身必ずしも理解していたとは思えず、光のエネルギー量が不連続な値を取ると考えれば、計算上つじつまが合うとは思っても、その考えにプランク自身がなじめなかったようです。

当時物理学(ニュートン物理学)は既に完成され、完全なものだとされていました。プランクも16歳の時に自分の進路について知り合いの大学教授に相談した際、「物理学に今後新たな発見は無い」と断言されていた程であり、プランクもその枠(現在、古典物理学と呼ばれている)から完全には脱皮できなかったのでしょう。
言うなればプランクは、「心ならずも」新しい物理学、量子論の扉を開いたものの、生涯その位置からは距離を置いていたようです。

アインシュタインも、怒涛のように進展してくる量子論に対して、全面的な受け入れを生涯拒んでいたようです。量子論の第一人者、ニールス・ボーアとの論争は有名です。
量子論が示す、例えば「観測問題」や「不確定性原理」等の「曖昧さ」に我慢が出来ず、「神はサイコロを振らない」と言う有名な言葉を残しています。
アインシュタインは量子論が示すこれらの「曖昧さ」は、自然そのものの姿ではなく、量子論の未完成によるもので、より深い理論の登場によって、それらの「曖昧さ」が解明され、完全に自然の姿を説明できるのだ、と考えていたようです。

量子論の幕開けを担った2人が、共に量子論に一定の距離を置いていたと云うのも、皮肉なことでは有ります。
それだけ、それまでの物理学からの脱皮、パラダイムシフトが大きな事件だったと云うことでもありましょう。


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